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2006年02月01日

戦争と平和

何故、我々はこの地球上に生まれてきたのか。そして、何を目的として生きていくのか。
この大命題を考えていくときに、必ず、ぶつかるのが、我々は、何故戦争をするのか、という問題である。
もう少し、考えていくと、国が、我々を、どう守ったか、という問題である。

先日、偶然にもテレビを見ていたら、ナポレオンの映画をやっていた。見るともなしに、見てしまったのだが、ナポレオンにしても、歴史の必然の中から生まれて来たのだということが良くわかる。言い換えれば、歴史の申し子である。しかし、そのナポレオンが、何処かで、天から与えられた、若しくは、歴史から与えられた、自分の使命を忘れて、ナポレオン個人の我に支配されたときに、歴史から、若しくは、天から、見放されて滅んで行くのが良く判る。

ベートーヴェンの交響曲第三番「英雄」、そして、チャイコフスキーの「1812年」。
この二つの叙事詩として、後世に記録されるほどの歴史的大事件を引き起こしたナポレオンが、何故、あれだけの奇跡を作ることが出来たのだろうか。そして、何故、滅んだのだろうか。
ただ一点、鍵は、「天の意思」と、「私の意思」である。

群雄割拠の時代、地方地方の豪族が、「これでは、国民が平和にはなれない」と思って、戦いを起したときは、「天の意思」である。しかし、愚かなもので、人間、権力を身につけると、不思議と、「天の意思」と、「私の意思」が、心の中で葛藤を始める。そして、「私の意思」が勝ったときに滅びが始まるようである。

時代と、ところを換えて、わが国の場合を考えても良く理解できる。
東洋の弱小国、日本が、列強からの圧力を撥ね退けて、奇跡を作ったのが、日清、日露の戦争だった。
しかし、この二つの戦争に勝った、日本は、大陸政策において、アジア民族の解放でなく、従来の列強と差異のない、「支配」を繰り返したことが、自らの苦境を招くことにつながった。もしあのとき、本当に、韓国や、中国の人々のことを考えていたら、歴史は、大きく動いたのではないだろうか。

最近、小泉首相の靖国神社の参拝問題で、わが国は、再び、アジアの中で孤立しつつある。
これなども、「天の意思」が何処にあるかを考えれば、簡単である。無論、小泉首相も、「天の意思」は、我にありと主張されるだろう。しかし、大事なことは、その心の奥である。
小泉首相が、何故、靖国神社の参拝に拘るのか。また、ポスト小泉の候補たちが、何故、靖国神社参拝に拘るのか。また、最近、喧しくなってきた、中国脅威論などが、何故起きて来たのか。
その背景は、ごくごく一部の人たちの、個人的利害の問題なのではないだろうか。

太平洋戦争も、あたかも、東条英機首相一人に戦争責任が擦り付けられているが、事実はそうではない。真実は、東条英機首相を操っていた、軍部、そして、その軍部を動かしていた、軍閥と称するほんの一部の特権階級なのである。このほんの一部の利己主義集団が、一見、大義名分を掲げ、世のため、人のためと称して、自己の利益を追求して行動する。重要なのは、この次である。それを見守る、一般の国民が、これを許さなければ、この行動を食い止めることが出来るのだが、大衆は、殆ど、無知、無責任なのである。たとえば、こういう論理を掲げても、大衆は、軍閥を否定するのではなく、「大衆は、無知・無責任」と主張した方に、刃を向けがちである。
「2-6-2の法則」というのをご存知だろうか。
どんな問題でも、大衆の意見は、賛成2、反対2、どっちつかずが6というのが、一般的という法則である。だから、大衆をリードしようとすれば、この6を扇動すれば、8を支配できるということである。

今、日本は、重大な岐路に立たされている。戦後の日本が、必死で作った、平和憲法を、アメリカからの押し付けられた憲法であると称して、改憲の方向にある。そして、時を同じくして、小泉首相の、靖国参拝問題である。
現在日本は、戦争を放棄した、平和憲法を保有しているにも拘わらず、世界有数の、軍事大国なのである。どこまで、強くなれば安全なのだろうか。
ナポレオンや、明治政府の「天の意思」から、「私の意思」への転換点を見失ってはならない。

国という存在は、確かに、必要である。しかし、ある時点から、国という存在ほど、国民を傷つけるものはない。

「国敗れて山河あり」。世界の歴史を眺めると、戦争に負けて、国民が壊滅したたとえがどれほどあるだろうか。むしろ、国が滅んで、国民が開放された例の方が、多いのではないだろうか。
ガダルカナル、サイパン、沖縄。あの戦いが、どう日本を守ったのだろうか。
もし、云うとすれば、あの戦いのおかげで、あの敗戦のおかげで、日本は開放され、現在の繁栄があるのではないだろうか。

日本が、本気で、中国や、韓国の国民のために、働いたら、アジアに、日本脅威論など生まれてこないのではないだろうか。そうかと言って、きちんと管理出来ていない、金のばら撒きは無駄である。

戦いのもとは、「我」である。
この「我」を捨てて、相手が喜ぶことをしていけば、2-6-2の法則の6を制することが出来るのではないだろうか。
個人と、個人。また、会社と会社の場合も同様である。
「和を以って貴しと為す」は、聖徳太子だけの専売特許ではない。
また、「滅私奉公」も死語ではない。
何日か前の、この欄でも述べたが、死んで、財産を、あの世へ持って行くことが出来ないのが、この世の中のルールである。
経済大国日本が、今、一部の個人の利益のために、国の財政を危うくしている。
もう一度、ゆっくりと、お金の使い道を考えるべきではないだろうか。

投稿者 hayashiya : 2006年02月01日 02:21