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HAYASHIYA BLOG

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2006年02月02日

仕事の仕方

2月1日,たった一日の朝日新聞の社会面を見るだけで、
「ビジネスホテルチェーン大手『東横イン』の偽装工事問題」
「防衛施設庁発注の空調設備工事をめぐる官製談合事件」
「耐震強度偽装事件で、ヒューザーの破産手続き開始を申請」
原発機器データ改ざん」
の活字が飛び込んでくる。

いったい、日本人は、いつから、こんな、インチキばかしをやるようになったのだろうか。

かつて日本は、「武士道」の国、清廉潔白の士の国だった。
忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛などを重んじ、私を捨てて、公に殉じるを旨とした。
ところが一体、どうだろうか。
今の日本人は、国に対しても、会社に対しても、また恩人、父母に対しても、忠誠心のかけらもない。まして、自己犠牲などは、存在しない。信義を重んじる心構えなど全く無く、金さえ儲かるなら何でもやる。
まして、「心が清らかで、恥を知る心がある。」なんてことは全く無く、衣食足りて栄辱を知るどころか、衣食足りて、益々貪欲なり。汚名を恐れず、汗顔、甘んじて受ける。
一旦、事件が発覚するや、幹部がテレビカメラの前に整列して、一見、韓信匍匐(かんしんほふく→大きな目的のため一時の屈辱や苦労にも耐え忍ぶ)の振りをして、頭を垂れるが、冷汗三斗など無縁にして、真実は、厚顔無恥。知足不辱(ちそくふじょく→自分の分を知れば、辱めを受けることもない)など、思いも及ばず。
礼儀、礼節、全く無くして、無駄に快楽を求める。勤倹尚武の気風なし。名誉、情愛など、まるで、無用のこと。
悲しいかぎりである。

本来、人間は、何かの使命を受けて、この世の中に生まれて来た。否、そんなことはないと否定される方も多いだろう。しかし、私は、そう信じている。そこで、私の考え方にそって、論旨を展開してみたいと思う。
この地球上に生を得た生物は、原則的には、皆、朝太陽が昇ると、目覚め、活動を開始する。そして、夕方、日没とともに活動を停止して、休息にはいる。そして、この日の出から、日没までの間に、その日の生きる糧を調達して、飢えを凌いできた。もともとは、人間も含めて、動物は、すべて、狩猟民族だったのだろう。ところが、それでは、全くの、その日暮らしで、ひとたび不猟ともなれば、何日も、飢えに耐えなければならなかった。そこで、知恵のある人々が、稲作を始めたのだろう。狩猟の合間に、稲を植え、計画的に、食料を蓄えるようになる。そして、さらに、分業が進み、少しずつ経済効果が発達して、今日のような、経済的余裕を生み出したわけである。
しかし、それでも、一人の人の生み出す経済的収入基準は、日の出から、日没までの間の労働にもとずく生産額である。
ところが、昨今は、株式や為替による、言うなれば、頭脳ゲームや、マネーゲームにより、一夜にして、巨万の富を得る人々が登場して、経済の価値基盤が崩壊しつつある。
その結果、一攫千金を夢見る輩が、続出し、全く、働くことの意義が失われつつある。
果たして、これでいいのだろうか。
また、この仕事の仕方でいいのだろうか。

仕事というものは、私服を肥やす目的ですべきものではない。
公の観点に立って、今は何をなすべきかを考え、必要に応じて実行する。
ところが、昨今の日本人の仕事ぶりを見ているとどうだろうか。
そこに、ダムを作って、飢饉のときの、水不足の解消を図るのではなく、それを、大義名分にして、関連企業の土建屋を儲けさせるのか、さもなくば、その指名した会社から、バックリベートを受けるために、仕事を発注する。全く、主客転倒の観がある。
そうかと思えば、大地震の襲来を恐れて発注した、耐震工事の強度計算において、施工業者の利益保全を目的として、まるで、大地震に絶えられないような強度計算をでっち上げて、施工してしまう。
それでいて、何の罪の意識もない。
まるで、めちゃくちゃな話である。
しかし、事実、こんな話が、堂々と、まかり通っているのである。
武士道華やかなりし頃の話なら、これにかかわった連中は、全員切腹、いや、切腹の名誉などあたえられず、打ち首獄門の上、家名断絶。一族郎党、所払いが当然であった。
いや、こんな極刑を復活しろなどと言っているのではない。
恥を知れと言いたいのである。
仕事とは、世の中の生活を、少しでもよくするためにすることで、私服を肥やすためにすることではない。
かつて、政治家と言えば、大野伴睦にしても、林屋亀次郎にしても、井戸塀政治家を旨とした。
井戸塀政治家とは、一度、政治家を志した者は、世の中のため、国家国民のために奔走して、最後に、井戸と塀しか残らなかったという意味で、全財産を投げ打って、世の中のために尽くしたものである。ところがどうだろう。いまや、政治家は、金儲けの早道と化し、そういう政治化を見て育った若者は、ワイロを受け取ることを、常識と考え、いまや、どんな商談にも、リベートが、横行している事態である。
こんな仕事の仕方は、仕事ではない。
天の心を忘れて、私服を肥やせば、必ずや滅亡の道をたどる羽目になる。
江戸時代の刀鍛冶、本阿弥光悦の母親は、死んだ時、柳行李ひとつに、木綿の着物が一枚残っていただけと聞く。
本阿弥光悦といえば、徳川家康から、洛北の鷹が峰の敷地を与えられ、一族、配下の工芸家を集めて芸術村をつくったほどの人。諸侯からの、付け届けも後を絶やさぬほどの成功者である。その人の母親が、死んだとき、木綿の着物が一枚だけということは、世間からの頂き物は、すべて、ほかの困っている人に分け与えてしまって、何も、残っていなかったということである。無欲清廉潔白の人。光悦も押して知るべし。気持ちのいい話である。


投稿者 hayashiya : 2006年02月02日 07:48