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HAYASHIYA BLOG

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2006年02月22日

有難うございました。

 昨日、東京第一生命ホールの公演を最後に、第一回「後藤泉&ゲーデ・ブラザース」のツアーを、大成功裡に終了させていただきました。
 誠に、有難うございました。

 クラシックのコンサートへ通い始めてから40年。
また、自分で、クラシックコンサート事業に、関わり始めてから20年。
沢山の感動を頂いて来ましたが、今回ほどの感動は、初めてでした。

 後藤泉のピアノと、ゲーデブラザースの3人の弦が、あれほど見事に対話し、一緒に、ホール中を駆け回り、お客様を見事に巻き込んで、舞台と、観客が、完全に、ひとつになったコンサートでした。

 ピアノが謳い、ヴァイオリンが応える。
 ピアノが歌い、チェロが奏でる。
 そして、ホール中のお客様が、
 それにあわせて、
 歌っていられるのが、手に取るように、感じられるコンサートでした。

 後藤泉のコンサートは、
 一曲、終わるごとに、拍手の位置が高くなるのが特徴ですが、
 今回のツアーは、一曲目から、拍手が頭の位置にあり、
 前半のモーツアルトの二番が終わったときは、殆どのお客様の拍手が、頭の上にありました。

 トーマス、ダニエル、そして、セバスチャンのゲーデ3兄弟の温かい人間性、そして、後藤泉のやさしさがひとつになって、まるで、4人兄弟・姉妹であるような、息遣いが、感じられました。

 正に、音作りの醍醐味というのでしょうか、4人の演奏者のテクニックが、テクニックを越えて、心の調和を見事に作り出した演奏会であったと思います。

 しかし、これも、大勢のお客様のご支援の賜物と、深く感謝いたしております。
 いつも、申し上げていることですが、演奏者が、どんなに、テクニックを駆使しても、お客様と、心がひとつにならないコンサートは、寂しい限りです。
 その点、後藤泉のコンサートは、毎回、お客様の温かいお心に包まれた、最高のコンサートです。
 誠に、ありがとうございます。
 今年は、このあと、スケジュールが目白押しです。
 お忙しいとは存じますが、万障お繰り合わせの上、後藤泉のコンサートにお出かけ下さいます様、お願いいたします。
 まづは、御礼まで。

投稿者 hayashiya : 09:04

2006年02月19日

音作りの醍醐味(5) 自然界の音を聴く

こうやって考えて来ると、プロデューサーの仕事も悪くない。
結構、遣り甲斐のある仕事である。
しかし、そうかといって、幾らプロデューサーがその気になっても、
実際に、努力するのは、演奏者本人なのだから、難しい。

私が、もうひとつ重視していることがある。

それは、後藤泉に、本物の自然の音を聴いてもらうことである。
しかし、これは、一朝一夕に出来るものではないし、
また、一回位、聴いたからといって、理解できるものでもない。
やはり、ある程度の長い期間で、自然環境の中に住んでもらうしか、方法がない。

後藤泉は、ベートーヴェンの九曲のシンフォニーを、
リストがピアノ用に編曲したものに挑戦、見事に完成した。
しかし、それは、弾けるようになったということだけで、
音作りの意味では、まだまだ奥が深い筈である。
この奥を探求するのに、3つの課題がある。

(1)まづ、ベートーヴェンがどう感じていたのか。
やはり、これは、ベートーヴェンの足跡を、実際に訪ねて見る必要がある。
そして、ベートーヴェンが、ベートーヴェン以前の音楽をどう感じていたのか。
そして、ナポレオンをどれほど、憧れていたのか。
それが、どう失望していくのか。
更に、恋をして、失恋をして、・・・・。
そして、最後に、神と人間との通訳になる決意をして、
第九を書き上げる、その心の過程を、本当に理解するには、
後藤泉自身による、ベートーヴェン研究が必要である。

(2)本当に自然の音を聴く。
これは、簡単なようで、難しい。
地球上、どこにいても、風の音は聴ける。
鳥の声も、ある程度聴ける。
しかし、ここが重要である。
風の音でも、ビル街の風と、森の中の風と、草原の風では、音が違う。
雨の音となると、もっと、細やかである。
霧のような雨、森の中を、遠くから渡って来る雨。篠つく雨。
嵐の雨。そして、天をひっくり返したような雨。
雷。遠雷。
嵐の後のさわやかさ。
すべて、色も音も違う。
季節の移ろいは、すべて、音がある。
そして、色がある。
音楽では、その音と色とを、同時に表現しなければならない。
星の輝き。
これも、季節によって、音も、色も違う。
ドヴォルザークの新世界。ヴィヴァルディの四季。
ベートーヴェンのスプリングソナタ。
同じ季節を謳うにも、表情は、全く違う。
オーケストラなら、指揮者がいるが、
アンサンブルの場合、自分自身が勝負である。
最近感じたことなのだが、
ルツェルン湖の月の光と、芦ノ湖の月の光とは、色が違う。
まあ、ベートーヴェンの「月光」を弾くのに、
ルツェルン湖の月の光を見なくても、
芦ノ湖の月の光で十分なのかも知れないが、
しかし、琵琶湖の月の光では、絶対に色も、音も違う。
山中湖の月の光も違う。
まして、中国の杭州の西湖の月の光は、全く、違う。
もし、画家に、この場所の違う月を、描き分けさせたら、
全く違う月の光を描き分ける筈である。
無論、文学者だとて、明瞭に書き分けるはずである。
その意味では、音楽家だとて、この違いを表現出来なければ、うそになる。
ここが、単なるテクニックの音楽と、心の音楽の差なのだろう。
この違いを、どう、音で表現するのだろうか。

(3)そこで、この表現文化をどう捉えるのか。
まず、自分で、表現することを、勉強して貰わなければならない。
後藤泉は、現在、二つのブログを持たせて頂いている。
そして、月刊「ショパン」に、エッセイの連載をさせていただいている。
これらは、後藤泉にとって、何事にも、換えがたい幸せである。
やはり、自分で感じたことを、文字を使って、自分で表現してみることは、
表現文化の、第一歩である。
そして、「後藤泉のやさしいクラシック講座」では、
自分で台本を書き、お喋りをしながら、ピアノを弾かせていただいている。
こうすると、その曲の、作曲された背景だとか、作曲者の意図がわかり、
演奏にも、深みがまして来る。
まだまだ、駆け出しであるから、
今聴いて頂いても、たどたどしいばかしで、感動して頂けないかもしれないが、
十年もすれば、大分、変わってくるだろう。
あとは、如何に、大勢の、表現文化の達人に、接点を持ち、
素直に教えを請うかである。
幸い、月刊「モーストリー・クラシック」の誌面で、
「後藤泉の表現文化研究所」なる、連載の対談ページを頂いた。
指揮者の小林研一郎先生との対談を皮切りに、
トヨタの世界中のモーターショウのデザインをされた、
環境演出プロデューサー、仁木洋子さん。
日本全国に、カレーハウス「CoCo壱番屋」を、1025店も展開された、宗次徳二さん。
そして、詩人であり、お料理研究家の、堀口すみれ子さん。
そして、大女優の、池内淳子さん。
錚錚たるかたがたにご登場頂き、各名人の表現文化をご教授頂いている。
言葉には、表現出来ない、感謝の気持ちでいっぱいである。

やはり、その道その道で成功されている方々は、
輝き方が、違う。
無論、後藤泉は、まだ、全くの未熟者であるから、
対談をさせて頂いても、恥ずかしいばかりで、
比べるべきものは何もないが、
それでも、一回の対談を終えるたびに、
「凄いですね。感動です。」と、素直に感激している後藤泉を見ていると、
たとえ、一ミリ、一ミリにしても、彼女の成長に役に立てればと祈っている。

後藤泉のプロデュースを引き受けたとき、
「金儲けならやらないよ。」
「タレントにすることもしないよ。」
かなりきつい条件を並べ立てた。
「もちろんです。お金もいりません。名声もいりません。
でも、一生、ピアノを弾けるようにしてください。
本当の音楽を演奏できるようにしてください。」
何度も、何度も、彼女は、私に、そう頼んだ。

この素直さが、この謙虚さが、後藤泉に、チャンスを運んでくるのだろう。
何年たったら、自然の音を弾き分けられる、本物の、ピアニストになれるのだろうか。
多分、私が、この世に生を得ている間には無理だろう。


投稿者 hayashiya : 22:50

音作りの醍醐味(4)フォルティッシモ

後藤泉のピアニッシモについて、お話をしてきたので、
ついでに、フォルティッシモについても、
少し、書き記しておこう。
フォルティッシモとは、無論、音楽の強弱標語のひとつで、「きわめて強く」の意であるが、
だからと言って、ピアノの鍵盤を叩き付けるように弾くのは間違いである。
ジャズの演奏の場合など、
まるで、鍵盤を叩きつけるように、演奏しているのを見たことがあるが、
クラシックの場合、あまり、そういう弾き方はしないのではないだろうか。
鍵盤を叩きつけると、音が割れてしまう。
やはり、音が割れる寸前までが、限界である。
しかも、この音が割れる寸前までの弾き方で、
それ以上の、効果を出させるのが、テクニックである。
カラヤンのフォルティッシモが、壮大に聞こえるのは、
決して、カラヤンの演奏が、ほかの指揮者より、
大きな音量を出しているのではない。
フォルティッシモの対称軸のピアニッシモが、
他の如何なる指揮者のピアニッシモより、
深度が深いため、比較として、より大きく響くのである。
後藤泉の場合、音が割れるのを、極端に嫌う。
だから、フォルティッシモの指定の場合も、
決して、鍵盤を叩きつけることはしない。
飽くまでも、重さと速度を計算しながら、それでいて、和音の中の音のバランスを考えて、フォルティッシモを表現する。
そうかといって、そう簡単に、考えながらとか、計算しながら出来るものではない。
やはり、練習の積み重ねの中から、組み立てて、行くものなのだろう。
だから、ピアニッシモが重要になる。
やはり、大事なのは、技術を超えた表現力なのだろう。

投稿者 hayashiya : 05:11

音作りの醍醐味(3) 後藤泉のピアニッシモ

さて、昨日の続き。

技術は、所詮、技術。
大事なのは、心である。
心のない技術は、何の魅力もない。
何故か。
心のない技術は、正確なだけで、
コンピューターの演奏と代わりが無い。
聴いていても、どこか、冷たさが伝わってくる。

ところが、技術の訓練を、繰り返し、繰り返し重ねることで、
ある領域から、音に優しさが出てくる。
この優しさを表現出来る技術が、ピアニッシモの表現力なのではないだろうか。
無論、フォルティッシモも重要である。
しかし、私は、基本は、ピアニッシモだと思う。

ヘルベルト・フォン・カラヤンが存命の頃、
私は、屡、カラヤンの演奏を追っかけて、世界を飛び回ったことがある。
このときも、カラヤンと、ほかの指揮者の違いは、
ピアニッシモだった。
無論、カラヤンの、フォルティッシモは、最高である。
しかし、そのフォルティッシモは、
飽くまでも、ピアニッシモに、基盤のある、フォルティッシモなのだ。
これが逆で、フォルティッシモに基盤のある、ピアニッシモは、本物ではない。

後藤泉の場合も、このピアニッシモの表現力が重要である。
そして、この技術は、山根美代子先生の、秘伝だと思う。
ただ、それを生かせているのは、後藤泉の弛まぬ努力と、研鑽なのではないだろうか。
いくら、この手法を教えられても、
本人が、それを習得する努力をしなければ、どうにもならない。

後藤泉のコンサートには、必ず、アンケート用紙が配られる。
そのアンケート用紙を回収すると、ひとつのパターンが存在する。
1回のコンサートに、100枚から、~200枚くらいのアンケート用紙が回収されてくるのだが、
99%は、「感動しました」とか、「素晴らしかった」というものなのだが、
偶に、1枚、「何故、もっと強く弾かないのですか」とか、
「自己主張が足りない」とか、
「自信が無さすぎ」などというものがある。
特徴としては、その他の99%が、名前も、住所も、電話番号も、明記されているのに、
この、1%の批判は、名前も、住所も、電話番号も記載されていない。
しかも、殆ど、書き殴り状態で、見ただけで、心が痛む。
そこで、ある時、ウェルナー・ヒンクや、フリッツ・ドレシャルに相談したことがある。
応えは、明快だった。
「そんなこと、気にしなくていいよ。
後藤泉の魅力は、あの、ピアニッシモだよ。
あの音が、なかなか出せないんだ。
僕達が、後藤泉と、一緒に演奏したいのは、あのピアニッシモの音なんだよ。
あれは、自信がないのではないよ。
もっと、大きくピアノを弾くことを望んでいる人には不満なのかな。
アンサンブルというのは、まあ、一種の対話なんだね。
ヴァイオリンと、ピアノ。チェロとピアノ。
ある時は、恋を囁いたり、またあるときは、言い争ったり、
また、ある時は、一緒に、人生を謳歌したり、
また、ある時は、人生を悲しんだり。
だから、そのシーンで、思いっきりフォルティッシモのときもあるけど、
逆に、徹底的に、ピアニッシモのときもある。
後藤泉の特徴のひとつは、耳だよ。
彼女、物凄く、耳がいい。
だから、僕達が、変化すると、すかさず、それに着いて来る。
そして、僕達の動きを聴いて、
ピアニッシモになったり、フォルティッシモになったりするんだ。
彼女の弾き方を、自信が無いなんて聴くのは、間違いだよ。」

どうやら、このピアニッシモが、後藤泉の特徴なのかもしれない。
このとき以来、名前も、住所も、電話番号も明記されていない、
この手の批判には、耳を貸さないこととした。

続く。


投稿者 hayashiya : 05:11

2006年02月17日

音作りの醍醐味 (2) 基本の「2」

さて、昨日の続き。
今、新幹線にて、名古屋から京都へ到着。
つかの間の暇を見つけて、ブログに挑戦。

後藤泉の音楽活動は、
2005年の基本の「2」デュオから、
2006年は、「3」トリオ、「4」クアルテット、「5」クウィンテットへと展開。
アンサンブルの基本の習得へと進みます。

そして、「15~20」の室内オーケストラ、そして「60~100」のオーケストラへと進み、
最後は、「∞」から、「1」へ返るのだと思います。

何故「∞」から「1」へ戻るのかというと、
「∞」は聴衆です。
聴衆とともに、音楽を作れるようになって、初めて、
本物の、ソロ活動「1」が出来るようになるのではないでしょうか。

この意味で、今年の後藤泉は、徹底的にアンサンブルが中心です。
2月の、ゲーデブラザース+後藤泉「4」
5月の、イアン・バウスフィールド+ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルク+後藤泉「3」
7月の、ティボール・コヴァーチ+フリッツ・ドレシャル+後藤泉「3」
7月の、ラルス・ミヒャエル・シュトランスキー+ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルク+後藤泉「3」
8月の、ダニエル・ゲーデ+カール・ズスケ・ユルンヤーコブ・ティム+コントラバス+後藤泉「5」
8月のザルツブルクと、10月の、ウェルナー・ヒンク+フリッツ・ドレシャル+後藤泉「3」

そして、その間に、ベートーヴェン・オーケストラとの、ベートーヴェンのピアノ・コンチェルト4番で「75」

更には、
4月、ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルク+後藤泉「2」
7月、ティボール・コヴァーチ+後藤泉「2」
7月、フリッツ・ドレシャル+後藤泉「2」
7月、ペーター・シュミードル+後藤泉「2」
8月、ダニエル・ゲーデ+後藤泉「2」
11月、マティアス・グランダー+後藤泉「2」
12月、ペーター・シュミードル+後藤泉「2」
と、デュオ「2」を連続する。

技術の基本は繰り返しである。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。そして、真剣勝負。
たった1回の真剣勝負でも、道場での無数の練習に勝る。
柳生流、無刀取りの極意は、真剣勝負の窮地の窮地に編み出された極意である。

私は、後藤泉が有名になることを望んではいない。
また、出演料が高額になることも望んではいない。
無論、本人も、同様である。
むしろ、本物の音楽が作れる、本物の、音楽家になってもらいたい。

しかし、ここまでは、技術の話である。
技術は、所詮、技術のこと。
大事なのは、心である。
心のない、技術は、何の魅力もない。

つづく。


投稿者 hayashiya : 13:56

音作りの醍醐味 (1)これは事件だ。

いよいよ、ゲーデブラザースと、後藤泉の、ピアノクアルテットの第一回のコンサートがスタートした。
実は、2005年の夏のことである。
ダニエル・ゲーデと、築地のすし屋で、一杯やっているときのことだった。
音楽談義に花が咲き、どちらからともなく、
「どうせなら、楽しい音楽をつくりたいよね!」という話題になり、
「楽しい音楽」「新しい音楽」に、会話が集中した。

クラシック音楽の場合、「新しい音楽」を作ると言っても、ジャズのように、自由ではない。
例えば、ジャズの場合で言うならば、
同じ曲を演奏する場合でも、
演奏する日にちだとか、場所により、ある程度、自由に、
アドリブを入れることが許されており、
演奏日時と、会場が変われば、
全く、雰囲気の違う曲のごとくに演奏出来る。

だから、ジャズのCDを見てみると、同じ曲名が書かれていても、
その後ろに、何月何日の、何処何処の会場でのライブという表示が書かれている。
ここが、ジャズのライブの魅力である。
ところが、クラシックの場合、このあたりの自由がない。
だから、クラシックのファンは、ある程度、ある曲については、固定観念を抱きがちである。
しかし、例えば、オーケストラの場合、
ベートーヴェンの第七番を例にとると、
カラヤンと、バーンシュタインでは、演奏時間も、表情も、全く違うものである。
しかも、同じ、バーンシュタインでも、
若かりしときと、亡くなる寸前の演奏では、全く表情を異にしている。
つまり、クラシックの場合でも、実は、演奏日時と、会場により、
全く違う音を作り出しているのである。

もう少し、掘り下げていくと、
同じウィーン・フィルのメンバーでも、ウェルナー・ヒンクと後藤泉のデュオと、
ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルクと後藤泉のデュオでは、
同じ曲を弾いても、全く、雰囲気が変わってくる。

ここが、音楽の音作りの魅力なのではないだろうか。

今回、ゲーデブラザースと後藤泉のピアノクアルテットの面白さは、ここにつきる。

だから、今回の宣伝用のキャッチコピーに、
「これは、事件だ」と、謳ったのである。
ところが、ある友人から、
「クラシックで、このコピーを使うのは、不適当だよ」というご指摘を頂いた。
実は、このご批判こそ、私が聞きたかった「発言」だった。

私は、ピアノもヴァイオリンも弾けない。
無論、音楽大学を卒業したわけではない。
しかし、音楽作りに参加したいと考えてきた。
そして、それを実践しようと考えている。
なぜなら、音楽作りは、演奏者だけで、作るものではないからだ。
音作りの重要な要素に、
会場がある。
東京のサントリーホールと、大阪の、ザ・シンフォニーホールとでは、
音響が全く違う。
まして、ウィーンの、ムジークフェラインでは、全く違う。
また、楽器でも、音は違う。
同じピアノでも、スタインウェイと、ベーゼンドルファーでは、全くの別物だし、
同じスタインウェイでも、アメリカものと、ヨーロッパものでは、全く違う。
そして、製造年代でも違う。
こう考えてくると、演奏される曲が同じでも、その日のお客様によっても、
大きく違っていることが理解できる。
典型的なのは、ニューヨークでのニューヨークフィルと、
ウィーンのムジークフェラインでの、ウィーン・フィルの演奏は、
上手い下手ではなくて、月とスッポンの違いがある。
会場も違うのであるが、聴衆が違う。
そして、その違いが、はっきりと、音の違いに出てくるのである。
例えば、同じピアニッシモでも、カラヤンと、バーンシュタインでは、全く違うし、
ニューヨークとウィーンでは、月とスッポンどころか、月と蟻くらい違う。
何度も言うが、上手い下手ではない。
趣が違うのである。
屡、日本のクラシックファンは、演奏を、上手い、下手で評することが多い。
例えば、「今日の彼の演奏は、下手だった」とかである。
しかし、それが、正しい聴き方なのだろうか。
名人が、忙しくて、手を抜いて演奏するのより、まだ新人が、必死で、演奏するほうが、
曲自体の完成度が低くても、聴衆を感動させることもある。

こう考えてくると、クラシックの音作りは、実に、面白いアートなのである。

今年、2006年の後藤泉は、新しい挑戦が多い。
昨年までは、どちらかと言えば、デュオを中心に展開してきた。
それは、後藤泉に、アンサンブルの基本の「2」を沢山、経験して欲しかったからである。
無論、ヒンク、ドレシャルとのトリオもあったが、
ベートーヴェンオーケストラとの、トリオの対話もあった。
しかし、その双方が、相手をよく知り尽くしている、ヒンク、ドレシャルとのものだった。
そこで、デュオは、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、フルートと、ピアノの相手を変えることで、
後藤泉に、基本の「2」を体験してもらった。
そして、今年は、少し、違う音との組み合わせを考えてみた。
今回のゲーデブラザースとの組み合わせなどは、全く、違う音である。
言うなれば、「大人の音」というべきか、また、「心の音」というべきか。
今日のモーツアルトも、シューマンも、絶品である。

5月には、トロンボーンの名手中の名手、イアン・バースフィールドと、
ヴァイオリンの、これまた若手の名手、ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルクと、
後藤泉の、全く新しい、トリオのスタートがある。
トロンボーンと、ヴァイオリンと、ピアノ。
楽譜から、全く新しく揃えなければならない、難事業だけれど、
面白さは、抜群である。
イアン・バースフィールドは、トロンボーンの名手であると同時に、
編曲も自由自在。
おまけに、ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルクは、
ウィーン・フィルのライブラリアンの要職でもあるから、
楽譜集めは、得意中の得意。
この組み合わせで、ウィーン、ロンドン、東京と演奏旅行を出来るのだから、
後藤泉も、ピアニスト冥利に尽きるものだ。
しかし、一番、面白い思いをしているのは、かく言う、私である。
それこそ、プロデューサー冥利に尽きるということだろう。

名古屋にて。

つづく。


投稿者 hayashiya : 07:46

2006年02月14日

音楽の影響力について

 日本の政治・行政の現場をみていると、音楽とは、程遠い。
 教育の現場ですら、音楽とは、無縁に見える。
 しかし、人間にとって、音楽は非常に重要なものである。
 我々が住むこの宇宙は、今から138億光年昔に、大爆発を起し、膨張を開始した。そして、今も、膨らみ続けている。この宇宙創成の大爆発を、ビッグ・バン(Big Bang)という。
 このビッグ・バンから、宇宙にリズムが生まれた。
 爆発の中心から、無限大の遠くへ放出されるガスや、星星が、互いの重力で、引っ張り合い、回転し、数え切れない、たくさんのリズムが、誕生した。

 太陽系には、太陽を中心とした、惑星が、回転し、そのひとつひとつの惑星にも、月が誕生して、その惑星をまわる。
 地球を例にとれば、月が地球を廻るリズムが、海の干満を作り、人間の生理にも、微妙な影響を与えている。すべて、月のリズムである。
 地球の自転のリズムは、地球に、昼と夜を作り、この昼夜のリズムが、生物の、命のリズムを作っている。そして、この地球の自転が、南極と北極を作り、赤道を作っている。
 しかも、この地球の、南北両極を結ぶ、自転の回転軸が、地球の公転軌道面の法線に対して、約23.5度傾斜していることが、四季のリズムを作る。
 その四季のリズムが、稲作、そのほか、農業を支配する。農業だけではない、たとえば、この地球の自転と、地軸のずれが、海流を生み、それにより、魚群の回遊を生み出している。
 このように、宇宙のすべてのものが、実は、ビッグ・バンに起因する、リズムに支配されている。
 ところが、このリズムが、人間の存在に対して、あまりに、大きなスケールで、展開しているため、つい、我々は、この宇宙の壮大なリズムに生かされているのだということを、忘れがちである。
 だから、このリズムの将来を予測できれば、株価だとて、その推移を読むことが出来る。
 それが、未来学であり、また、東洋の気學、四柱推命である。
 
 さて、リズムとは、何であろうか。
 対照を成す諸要素の秩序づけられた交代。プラトンによって、「運動の秩序」と定義された。
 音楽や、文芸は言うに及ばず、絵画、彫刻、建築など、いわゆる空間芸術に広く認められている。
 しかし、「自然のリズム」とか、「労働のリズム」などといわれるごとく、実は、リズムとは、宇宙の営み、そのものなのである。
 つまり、あるリズムを繰り返していると、そこに、生命が誕生し、成長し、思考し、行動する。これらのすべてが、リズムに、その源を発する。

 だから、このリズムを理解し、そのリズムを生かして行けば、宇宙の営みに適した生き方が出来るはずである。
 この、リズムを理解するのに、音楽は、きわめて、重要である。
 いうなれば、音楽を極めることは、リズムを知ることに繋がる。
 それだけに、学校教育における、音楽は重要なのである。
 ところが、実際の音楽教育の現場において、この宇宙の営み自身がリズムのもとであるということを教えている事実を、未だ、耳にしたことは無い。
 言うなれば、音楽教育の指導者が、リズムの各論だけを教えて、総論を忘れているのである。いや、総論に気づいていないと言うほうが、的を得ているかもしれない。

 しかし、この音楽の効用については、既に、大勢の政治家や、行政の指導者が気づいており、その各々の現場において、利用されている。

たとえば、ドイツ。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は、屡、ワーグナーの音楽を利用して、大衆を鼓舞・扇動したと聞く。
 わが国の太平洋戦争時の大本営発表の、軍艦マーチなどは、この最たるものであろう。
 戦後、わが国は、焦土と化した中で、再建を始めるのだが、ここでも、音楽が、大衆の気持ちを盛り立てるのに、重大な役目を帯びている。
 ひとつは、ラジオ体操である。
もともとは、国民の健康と体位向上を目的に、10種類ほどの運動を順序づけ組み合わせた体操で、1928年に、大谷武一氏などにより、提唱され、放送が開始され、全国の小学校から、さらに、全国の津々浦々へと、普及した。太平洋戦争後は、一時、廃止されたが、1951年、戦後の国民の再起を促す目的を持って、再開された。
 戦後の音楽と言えば、NHKから放送された、ラジオ歌謡は、見逃すことが出来ない。
 日本中が焼け野原になり、夢も希望も無くなったとき、かすかに、ラジオから流れてきたラジオ歌謡のメロディは、日本人に、少しずつ、生きる希望を与えてくれた。
 こうして、戦後の日本人は、ラジオ体操の音楽と、ラジオ歌謡のメロディに、少しずつ勇気づけられて、元気を取り戻して来た。
 それに、更に、拍車をかけたのが、東京オリンピックと、万博である。
1964年10月、東京で開かれた第18回夏季オリンピック大会は、アジアで最初のオリンピックの呼び声とともに、参加94ヵ国と盛況を極めた。そして、東海道新幹線も開通し、連日、テレビから流される、東京オリンピックマーチは、弥が上にも、国民の気持ちを高揚させた。
 そして、1970年に、大阪で開催された万国博覧会は、「人類の進歩と調和」をテーマに、参加国77ヵ国を集め、アジアで最初のものとなった。
 このときは、三波春夫の「世界の国からこんにちわ」が、連日、テレビ・ラジオから放送され、敗戦国日本が、いつの間にか、奇跡の経済復興を遂げた喜びを、全国民に感じさせたものである。
こうして、歌は世につれ、世は歌につれと、戦後の日本は、音楽により、励まされ、音楽により、元気を取り戻してきたのである。
 そして今こそ、この音楽を、教育の現場に使うべきときが来ていると思う。
 戦後60年。日本は、確かに、奇跡の復興を成し遂げた。
しかし、確かに、世界の歴史に残る経済復興を成し遂げたのであるが、何か、一番大事な、何かを見失ってしまったのではないだろうか。
 連日の新聞やテレビの報道を見ていると、青少年の犯罪をはじめ、賄賂や談合、買収の日常化、正に、日本は、堕落の道をひた走りに、落ちているのである。
 今こそ、小学生や、中学生に、教育の原点に立って、日本人古来の、優しい心を取り戻させる運動を始めるときである。
 それには、優しいクラシックの音楽の普及こそ、必要なのではないだろうか。
 
 

投稿者 hayashiya : 02:47

ブログによる混乱

ブログを開設してから、順調に、書き進んできたのだが、
先週後半から、大混乱が始まった。
書いても、書いても、微妙なニュアンスのところで行き詰まり、
何本もの原稿が、宙に浮いてしまった。
どうも能力不足らしい。
無論、一旦は、どの原稿も、書き終えているのだが、
読み直してみると、どこかで、誰かを傷つける可能性があり、
そこを手直しすると、文章に迫力がなくなり、
これなら、書かない方がましだ、などと考えてしまう。
ただ文章を書くのだけなら、何も問題はないのだが、
やはり、公開するということは、責任が発生して、難しい。
そうかと言って、今更止める訳にもいかず、
困った話である。

と、言う訳で、今日は、ブログが停滞している言い訳です。
ごめんなさい。

投稿者 hayashiya : 00:11

2006年02月04日

何故、今クラシック音楽が必要なのか。

 [孟母三遷]と言う言葉がある。
 「子供の教育には、環境を選ぶことが、大切だ。」と言う意味である。
 中国、戦国時代の思想家であった孟子の母親は、孟子がまだ幼い頃、お墓の近くに住むと、お葬式のまねをして遊び、また、市場のそばに引っ越すと、商売ごっこをして、よく遊ぶようになったのに気づき、それならばと、学校の近くに引っ越した。そうすると、孟子は、いつも、机に向かい、本をよく読むようになった。
 こうして、環境が、子供に与える影響を考えて、孟子の教育に努めたという故事から、「孟母三遷の教え」とも言う。
 素晴らしい教えである。
 かつての、わが国においても、子供の教育を大事にし、これに似た話を聞いたことはあるが、昨今の母親からは、この手の話を、聞くことは、少なくなった。
 悲しいかぎりである。
 人間が生きていく上で、一番大切なことは、リズムである。
 この宇宙自体、幾つもの、リズムで成り立っている。
たとえば、地球は、太陽の周囲を、1年365日で廻っており、これも、リズムである。また、地球は、1日24時間で、自転しており、これが、1日のリズムを作る。
 また、心臓の脈拍は、十分にリズムであり、これが、生命をつかさどる。
 つまり、人間は、この宇宙から、宇宙の法則に基づく、幾つものリズムに支配されていると言っても、過言ではない。
 ところが、最近では、この宇宙の法則を無視して生きている人たちが少なくない。
 それが、人々の生きるリズムを狂わせ、人間の生き方を狂わせてしまっているように思えるのは、私だけだろうか。
 たとえば、コンピューターの発達は、経済の24時間体制を必要とし、ここに拘わる人たちは、一日3交代制で、昼間に寝て、夜中に働く人たちを生んだ。
 このリズムの狂いが、実は、昨今の犯罪の激増、とりわけ、青少年犯罪への増加傾向の原因と考えられている。
 この「孟母三遷」の故事にならい。もう一度、日本人を、この宇宙の自然のリズムの中に、戻すことは出来ないだろうか。
 子供の頃、学校の運動会の日、あの、勇壮な行進曲の音楽を聴いて、気持ちが高鳴った経験をお持ちの方も多いはずである。あの、2拍子の、マーチのリズムは、何故か、人の気持ちを高揚する。
 それに比べ、ワルツの3拍子のリズムを聴くと、なにか、ワクワクと、踊りたくなる。
 不思議なものである。
 この音楽のリズムの特性を生かし、子供たちに幼い時から、クラシック音楽のやさしいリズムを聴かせたらどうだろうか。たとえば、ベートーヴェンの「田園交響曲」のような優しいリズムを、毎日聴かせていたら、どうなるだろうか。
 自然と、生きるリズムが、ゆったりとした、物静かな子供たちが育ってくるのではないだろうか。
 ところが、最近の学校教育の現場を見ていると、ちょっと首を傾げたくなることがある。
 たとえば、小学生や、中学生に、ジャズのバンドを作らせて、これが、音楽教育だと主張している人たちがいる。これは、間違いである。
 ジャズの歴史を紐解いてみれば、明白である。
 ジャズとは、19世紀末頃、アメリカにおいて始まった、新しい音楽で、黒人の民族音楽と、ヨーロッパ音楽を母体として生まれた。楽器編成や、メロディ、ハーモニーは、ヨーロッパ音楽の伝統を引き継ぎ、リズム、フレージング、サウンドは黒人の感覚をもとにしている。音楽としては、素晴らしいものであり、心打つ曲も少なくない。しかし、これらの音楽が生まれてきた背景を考えると、わが国の若年層に教える教材としては、いかがなものであろうか。
 アメリカ新大陸の発見は、近代の奴隷制度の始まりである。そして、この歴史は、新大陸の開発に、スペインが、先住民やアフリカ黒人を使用したことに始まり、アメリカ南部のプランテーションで最盛となった。この黒人奴隷たちの、過酷な労働の中から生まれてきたのが、ジャズのリズムである。
 昼間の過酷な労働から解放されて、夜、ふるさとを思い、自由に憧れて、生まれてきた音楽が、ジャズである。だから、ジャズは、心を打つ。しかし、同時に、これは、抵抗歌でもある。
 それだけに、幼い子供たちに聴かせるには、必ずしも、適当と言えるだろうか。
 まだ、無色透明の心の持ち主の子供たちには、思想的にも、色の無い、優しいクラシック音楽のリズムを教えるほうが、良いのではないだろうか。
 昨今の、わが国の教育を見ていると、心よりも、技術に重きがおかれているように見える。
 しかし、大事なのは、心である。
 それだけに、教育の現場に、もう少し、クラシックの、優しいリズムの導入が急務なのではないだろうか。  
 

投稿者 hayashiya : 09:16

2006年02月02日

仕事の仕方

2月1日,たった一日の朝日新聞の社会面を見るだけで、
「ビジネスホテルチェーン大手『東横イン』の偽装工事問題」
「防衛施設庁発注の空調設備工事をめぐる官製談合事件」
「耐震強度偽装事件で、ヒューザーの破産手続き開始を申請」
原発機器データ改ざん」
の活字が飛び込んでくる。

いったい、日本人は、いつから、こんな、インチキばかしをやるようになったのだろうか。

かつて日本は、「武士道」の国、清廉潔白の士の国だった。
忠誠、犠牲、信義、廉恥、礼儀、潔白、質素、倹約、尚武、名誉、情愛などを重んじ、私を捨てて、公に殉じるを旨とした。
ところが一体、どうだろうか。
今の日本人は、国に対しても、会社に対しても、また恩人、父母に対しても、忠誠心のかけらもない。まして、自己犠牲などは、存在しない。信義を重んじる心構えなど全く無く、金さえ儲かるなら何でもやる。
まして、「心が清らかで、恥を知る心がある。」なんてことは全く無く、衣食足りて栄辱を知るどころか、衣食足りて、益々貪欲なり。汚名を恐れず、汗顔、甘んじて受ける。
一旦、事件が発覚するや、幹部がテレビカメラの前に整列して、一見、韓信匍匐(かんしんほふく→大きな目的のため一時の屈辱や苦労にも耐え忍ぶ)の振りをして、頭を垂れるが、冷汗三斗など無縁にして、真実は、厚顔無恥。知足不辱(ちそくふじょく→自分の分を知れば、辱めを受けることもない)など、思いも及ばず。
礼儀、礼節、全く無くして、無駄に快楽を求める。勤倹尚武の気風なし。名誉、情愛など、まるで、無用のこと。
悲しいかぎりである。

本来、人間は、何かの使命を受けて、この世の中に生まれて来た。否、そんなことはないと否定される方も多いだろう。しかし、私は、そう信じている。そこで、私の考え方にそって、論旨を展開してみたいと思う。
この地球上に生を得た生物は、原則的には、皆、朝太陽が昇ると、目覚め、活動を開始する。そして、夕方、日没とともに活動を停止して、休息にはいる。そして、この日の出から、日没までの間に、その日の生きる糧を調達して、飢えを凌いできた。もともとは、人間も含めて、動物は、すべて、狩猟民族だったのだろう。ところが、それでは、全くの、その日暮らしで、ひとたび不猟ともなれば、何日も、飢えに耐えなければならなかった。そこで、知恵のある人々が、稲作を始めたのだろう。狩猟の合間に、稲を植え、計画的に、食料を蓄えるようになる。そして、さらに、分業が進み、少しずつ経済効果が発達して、今日のような、経済的余裕を生み出したわけである。
しかし、それでも、一人の人の生み出す経済的収入基準は、日の出から、日没までの間の労働にもとずく生産額である。
ところが、昨今は、株式や為替による、言うなれば、頭脳ゲームや、マネーゲームにより、一夜にして、巨万の富を得る人々が登場して、経済の価値基盤が崩壊しつつある。
その結果、一攫千金を夢見る輩が、続出し、全く、働くことの意義が失われつつある。
果たして、これでいいのだろうか。
また、この仕事の仕方でいいのだろうか。

仕事というものは、私服を肥やす目的ですべきものではない。
公の観点に立って、今は何をなすべきかを考え、必要に応じて実行する。
ところが、昨今の日本人の仕事ぶりを見ているとどうだろうか。
そこに、ダムを作って、飢饉のときの、水不足の解消を図るのではなく、それを、大義名分にして、関連企業の土建屋を儲けさせるのか、さもなくば、その指名した会社から、バックリベートを受けるために、仕事を発注する。全く、主客転倒の観がある。
そうかと思えば、大地震の襲来を恐れて発注した、耐震工事の強度計算において、施工業者の利益保全を目的として、まるで、大地震に絶えられないような強度計算をでっち上げて、施工してしまう。
それでいて、何の罪の意識もない。
まるで、めちゃくちゃな話である。
しかし、事実、こんな話が、堂々と、まかり通っているのである。
武士道華やかなりし頃の話なら、これにかかわった連中は、全員切腹、いや、切腹の名誉などあたえられず、打ち首獄門の上、家名断絶。一族郎党、所払いが当然であった。
いや、こんな極刑を復活しろなどと言っているのではない。
恥を知れと言いたいのである。
仕事とは、世の中の生活を、少しでもよくするためにすることで、私服を肥やすためにすることではない。
かつて、政治家と言えば、大野伴睦にしても、林屋亀次郎にしても、井戸塀政治家を旨とした。
井戸塀政治家とは、一度、政治家を志した者は、世の中のため、国家国民のために奔走して、最後に、井戸と塀しか残らなかったという意味で、全財産を投げ打って、世の中のために尽くしたものである。ところがどうだろう。いまや、政治家は、金儲けの早道と化し、そういう政治化を見て育った若者は、ワイロを受け取ることを、常識と考え、いまや、どんな商談にも、リベートが、横行している事態である。
こんな仕事の仕方は、仕事ではない。
天の心を忘れて、私服を肥やせば、必ずや滅亡の道をたどる羽目になる。
江戸時代の刀鍛冶、本阿弥光悦の母親は、死んだ時、柳行李ひとつに、木綿の着物が一枚残っていただけと聞く。
本阿弥光悦といえば、徳川家康から、洛北の鷹が峰の敷地を与えられ、一族、配下の工芸家を集めて芸術村をつくったほどの人。諸侯からの、付け届けも後を絶やさぬほどの成功者である。その人の母親が、死んだとき、木綿の着物が一枚だけということは、世間からの頂き物は、すべて、ほかの困っている人に分け与えてしまって、何も、残っていなかったということである。無欲清廉潔白の人。光悦も押して知るべし。気持ちのいい話である。


投稿者 hayashiya : 07:48

2006年02月01日

戦争と平和

何故、我々はこの地球上に生まれてきたのか。そして、何を目的として生きていくのか。
この大命題を考えていくときに、必ず、ぶつかるのが、我々は、何故戦争をするのか、という問題である。
もう少し、考えていくと、国が、我々を、どう守ったか、という問題である。

先日、偶然にもテレビを見ていたら、ナポレオンの映画をやっていた。見るともなしに、見てしまったのだが、ナポレオンにしても、歴史の必然の中から生まれて来たのだということが良くわかる。言い換えれば、歴史の申し子である。しかし、そのナポレオンが、何処かで、天から与えられた、若しくは、歴史から与えられた、自分の使命を忘れて、ナポレオン個人の我に支配されたときに、歴史から、若しくは、天から、見放されて滅んで行くのが良く判る。

ベートーヴェンの交響曲第三番「英雄」、そして、チャイコフスキーの「1812年」。
この二つの叙事詩として、後世に記録されるほどの歴史的大事件を引き起こしたナポレオンが、何故、あれだけの奇跡を作ることが出来たのだろうか。そして、何故、滅んだのだろうか。
ただ一点、鍵は、「天の意思」と、「私の意思」である。

群雄割拠の時代、地方地方の豪族が、「これでは、国民が平和にはなれない」と思って、戦いを起したときは、「天の意思」である。しかし、愚かなもので、人間、権力を身につけると、不思議と、「天の意思」と、「私の意思」が、心の中で葛藤を始める。そして、「私の意思」が勝ったときに滅びが始まるようである。

時代と、ところを換えて、わが国の場合を考えても良く理解できる。
東洋の弱小国、日本が、列強からの圧力を撥ね退けて、奇跡を作ったのが、日清、日露の戦争だった。
しかし、この二つの戦争に勝った、日本は、大陸政策において、アジア民族の解放でなく、従来の列強と差異のない、「支配」を繰り返したことが、自らの苦境を招くことにつながった。もしあのとき、本当に、韓国や、中国の人々のことを考えていたら、歴史は、大きく動いたのではないだろうか。

最近、小泉首相の靖国神社の参拝問題で、わが国は、再び、アジアの中で孤立しつつある。
これなども、「天の意思」が何処にあるかを考えれば、簡単である。無論、小泉首相も、「天の意思」は、我にありと主張されるだろう。しかし、大事なことは、その心の奥である。
小泉首相が、何故、靖国神社の参拝に拘るのか。また、ポスト小泉の候補たちが、何故、靖国神社参拝に拘るのか。また、最近、喧しくなってきた、中国脅威論などが、何故起きて来たのか。
その背景は、ごくごく一部の人たちの、個人的利害の問題なのではないだろうか。

太平洋戦争も、あたかも、東条英機首相一人に戦争責任が擦り付けられているが、事実はそうではない。真実は、東条英機首相を操っていた、軍部、そして、その軍部を動かしていた、軍閥と称するほんの一部の特権階級なのである。このほんの一部の利己主義集団が、一見、大義名分を掲げ、世のため、人のためと称して、自己の利益を追求して行動する。重要なのは、この次である。それを見守る、一般の国民が、これを許さなければ、この行動を食い止めることが出来るのだが、大衆は、殆ど、無知、無責任なのである。たとえば、こういう論理を掲げても、大衆は、軍閥を否定するのではなく、「大衆は、無知・無責任」と主張した方に、刃を向けがちである。
「2-6-2の法則」というのをご存知だろうか。
どんな問題でも、大衆の意見は、賛成2、反対2、どっちつかずが6というのが、一般的という法則である。だから、大衆をリードしようとすれば、この6を扇動すれば、8を支配できるということである。

今、日本は、重大な岐路に立たされている。戦後の日本が、必死で作った、平和憲法を、アメリカからの押し付けられた憲法であると称して、改憲の方向にある。そして、時を同じくして、小泉首相の、靖国参拝問題である。
現在日本は、戦争を放棄した、平和憲法を保有しているにも拘わらず、世界有数の、軍事大国なのである。どこまで、強くなれば安全なのだろうか。
ナポレオンや、明治政府の「天の意思」から、「私の意思」への転換点を見失ってはならない。

国という存在は、確かに、必要である。しかし、ある時点から、国という存在ほど、国民を傷つけるものはない。

「国敗れて山河あり」。世界の歴史を眺めると、戦争に負けて、国民が壊滅したたとえがどれほどあるだろうか。むしろ、国が滅んで、国民が開放された例の方が、多いのではないだろうか。
ガダルカナル、サイパン、沖縄。あの戦いが、どう日本を守ったのだろうか。
もし、云うとすれば、あの戦いのおかげで、あの敗戦のおかげで、日本は開放され、現在の繁栄があるのではないだろうか。

日本が、本気で、中国や、韓国の国民のために、働いたら、アジアに、日本脅威論など生まれてこないのではないだろうか。そうかと言って、きちんと管理出来ていない、金のばら撒きは無駄である。

戦いのもとは、「我」である。
この「我」を捨てて、相手が喜ぶことをしていけば、2-6-2の法則の6を制することが出来るのではないだろうか。
個人と、個人。また、会社と会社の場合も同様である。
「和を以って貴しと為す」は、聖徳太子だけの専売特許ではない。
また、「滅私奉公」も死語ではない。
何日か前の、この欄でも述べたが、死んで、財産を、あの世へ持って行くことが出来ないのが、この世の中のルールである。
経済大国日本が、今、一部の個人の利益のために、国の財政を危うくしている。
もう一度、ゆっくりと、お金の使い道を考えるべきではないだろうか。

投稿者 hayashiya : 02:21