2006年01月25日
実業と虚業について
昨日に引き続き、「実業と虚業」について、考えてみよう。
広辞苑を引いてみると、
「実業」は、農業・工業・商業・水産などのような生産・経済に関する事業。とある。
「虚業」は、(「実業」をもじった語)堅実でない事業。実を伴わない事業。とある。
そして、「実業家」は、商工業・金融などの事業に携わる人。
「虚業家」は、実務を行わず、ただ権利譲渡などを目的とする名義だけの会社をみだりに起して実業家を気取る者。とある。
今から、30年も昔のことである。
その当時、私は、弁護士の河村卓也先生(故人)に、顧問をお願いし、事業の手解きを教えて頂いていた。
ある時、あるアイデアが浮かび、事業展開をしたら、さぞかし面白いだろうと考え、その構想を持って、先生に、相談に伺った。事業構想としては、かなり、面白いものだったと、今でも考えられるものだったが、河村先生は、即座に、「それは、やってはいけません」と、私の得意顔に、ぴしゃりと、釘を刺された。
「君は、この仕事を、何の目的でするのですか。」
「無論、お金儲けです。これなら、結構資金が集まると思います。」
この答えが良くありませんでした。
「ハッハッハ」先生は、笑いながら、呆れたような顔をされ、
「お金儲けで事業をするのなら、私のところへ来ない方がいいよ。同じ弁護士でも、そういうアイデアを教えてくれる人は幾らでもいるよ。」
「えっつ。事業は、お金をもうけるためにやるのではないのですか。」
若気の至りである。
「違います。事業は、世の中のためにするのです。世の中のお役に立って、初めて、対価をいただけるのです。世の中のために、たくさんお役に立てば、必然的に対価も、たくさん頂けます。しかし、対価を得ることを、最初の目的にしてしまうと、本来の事業ではなくなります。」
この先生の一言が、私を援けて下さったのだと思います。
さもなければ、私も、事業の何たるかを忘れて、虚業に走っていたかも知れません。
ぞっとする話である。
では一体、虚業とは、何なのだろうか。
先ほども述べましたが、「堅実でない事業。実を伴わない事業。」のことである。
私が、河村先生にご相談したのは、「会員制の貸し別荘クラブ」の事業計画だったのですが、先生は、アイデアは面白いが、「虚業だ!」と断言されました。
「でも、それなら、会員制のゴルフクラブとかも、虚業ですか。」と伺うと、
「ゴルフクラブは、確かに、ゴルフ場もあるし、クラブハウスもあって、実業だと思うけれども、入会金だとか、保証金、預かり金の部分で、虚業になると説明されました。ゴルフ場自体には、資産価値はあるけれど、ゴルフ場の経営者が、入会金と称して集めている資金は、現実のそのゴルフ場の価値の何倍もの資金を集めており、事業が失敗したときに、例え、ゴルフ場の分割所有権を引き当てても、出資者へ、出資金の何分の一も返せない。これは、本当は、詐欺ですよ。現に、この経営者たちのかなりの人は、この集めた資金を、再投資するのでしょうが、その殆どが、集めた資金とは、別の事業への投資で、それも多分、失敗することの方が多いでしょう。また、経営者によっては、自分の贅沢のために、使ってしまう人もいるはずです。君の会員制貸し別荘クラブも同じです。」
こう、はっきりと、指摘をされました。
事実、日本の経済がバブル破綻したとき、かなりの数のゴルフ場が破綻。まさに、河村先生が、ご指摘された状況が出現したのです。
「何故そうなるかというと、経営者が、本当にゴルフの普及を考えているのではなく、自分の事業展開のための資金集めになっているからです。」
先生は、明快に、そう説明して下さいました。
1月25日付けの朝日新聞夕刊によれば、堀江貴文氏は、彼の『著書「稼ぐが勝ち」では、「20代のうちにお金持ちになって自分の好きなことをやるには起業するしかない」』と述べている。
まさに、この出発点に問題があったのだと思います。
この実業と、虚業の識別がつかずに、才能に任せて、事業展開をすると、必ず、足をすくわれることになるのではないでしょうか。
日本の社会風潮を見ていますと、誰かが素晴らしいとなると、マスコミも、世評も、すべてが、賛美の声一色になり、批判の意見が出て来ません。ところが、ひとたび、失敗すると、今度は、すべての意見が批判に廻り、殆ど、村八分の様相を呈します。果たしてこれでいいのでしょうか。
満州事変から、太平洋戦争へ向かう過程の、わが国の論調も、正に、この論理展開と同じ道を歩きました。わが国のマスコミは、どうも、常に、100対0を期待しているようです。しかし、本来の民主主義は、51対49が理想です。そして、勝者が、敗者の意見を尊重して、決して、完勝しない。
今回の「ライブドア」の事件も、堀江貴文氏が人気のときは、まるで蝶よ花よと囃し立てておいて、今度は、悪いとなった途端に、今まで、さんざん誉めていた人たちが、今度は、損害賠償だ、何だと、動き回るのは、如何なものでしょうか。
日本人に求められていることは、いかなるときにも、冷静沈着に、そして、公平に判断を下す、ゆとりなのではないでしょうか。
そして、何よりも大事なことは、大学において、起業の仕方を教えるのではなくて、起業の思想を教えることなのです。
投稿者 hayashiya : 16:08
2006年01月24日
生きる価値について(2)
我々は何のために生まれて来て、何の目的で生きているのでしょうか。
この大命題を考えているときに、ニュースが飛び込んできた。
「ライブドアの堀江貴文氏逮捕」の報道である。
新聞もテレビも、連日、このニュースで持ちっきりで、些か、食傷気味である。
それにしても、無責任なものである。
堀江社長がではない。
新聞、テレビの報道と、社会の反応がである。
つい先日までの、マスコミの対応振りは、一体何だったのだろうか。
しかも、ひとたび、逮捕されるや否や、この間まで、業務提携したりしてた先が、
「裏切られた」とか、「騙された」とか、称して、今度は、損害賠償だという。
大体、この世の中は、そんなに簡単に、お金がもうけられるのだろうか。
何かのからくりがなければ出来ないことで、本来ならば、そう簡単に、巨万の富が出来るわけがない。
だから、堀江貴文氏と、共同で何かをすると言っていた以上、本当は、同様の考え方の持ち主なのではないだろうか。
人間は、本来、太陽が昇ってから働き、太陽が沈んで、その日の休息をとることを、一日のリズムとして生きてきた。
このサイクルだと、一人の人間が、一日に稼げる額には、限度がある。
そこに、少し、頭のいい人が出てきて、小作を雇うなどして、世の中に、少しづつ貧富の差が出てきた。
無論、人間という生き物は、少しでも、良い生活を求めるものらしく、また、少しでも、豊かになりたいと思うのも、自然の成り行きである。
しかし、物質文明が、必ずしも、我々に、幸せを与えるものでないことは、歴史を見れば、歴然としているのだが、どうも、学校教育自体が、「間違った人生の生き方と目的」を教えてしまっているようである。
だから、堀江貴文氏が、実業と、虚業の区別ができぬままに、虚業に足をふみいれたのに、世間も、マスコミも、誰も、注意もしなければ、批判もしなかったのである。
否、実態は、マスコミも、世間も、この実業と、虚業の違いに気づいていなかったのではないだろうか。
事実、現在、一見、華やかに宣伝されている事業の中に、何と、虚業の多いことか。
堀江貴文氏の言動に乗って、株式に投資した人々も、所詮は、一攫千金を夢見た、同じ穴の狢でしかなかったのではないだろうか。
それよりも、今の日本の青年が、地道に、社会の底辺を底上げする仕事に熱意をもつのではなく、自分たちの地位の向上と、目先の利益の追求にのみ、夢中になることは、太平洋戦争前の、日本の大陸政策にも似た、不安感を感じるのは、私だけであろうか。
堀江貴文氏は、決して、無能な人ではない。それどころか、実に有能な人材である。しかし、その、有能な人材の才能を、虚業に投じさせてしまえば、社会としては、重大な損害である。
学校教育は、本来テクニックを教えるのではなく、精神を教える場のはずである。
それが、いつの間にか、精神を捨てて、技術のみを教える場となってしまった。
それなら、専門学校で十分である。
明治の時代、福沢諭吉、大隈重信、江原素六がいたのに、今の日本に、誰もいない。
さびしい限りである。
投稿者 hayashiya : 00:37
2006年01月21日
山中湖テラスのニューイヤーコンサート
今日は、山中湖テラスのニューイヤーコンサートです。
年によって、若干移動はありますが、原則的には、1月の第二土曜日と、第三土曜日、午後4時から行われます。
本場のウィーンのニューイヤーコンサートは、1月1日、午前11時から、ウィーン・フィルの本拠地、ウィーンのムジークフェライン(楽友協会)で行われます。今年の指揮は、マリス・ヤンソンス。
このコンサートが、初めて開催されたのは、1939年の大晦日。ジルベスタ・コンサートとして開かれたのが、最初である。それが、1941年から、元旦のコンサートが加わり、今日に至っている。
これまでに、指揮台に上ったのは、現役で、ニコラウス・アーノンクール、ロリン・マゼール、リッカルド・ムーティ、クラウディオ・アバド、小澤征爾、ズビン・メータ、そして、故人では、創始者のクレメンス・クラウス、ウィリー・ボスコフスキー、ヨーゼフ・クリップス、ヘルベルト・フォン・カラヤン、カルロス・クライバーの11人しかいなく、今年のマリス・ヤンソンスは、12人目である。
これに比べ、山中湖テラスのニューイヤーコンサートは、ピアニストの後藤泉一人で行われるのであるから、華やかさも、規模も、全く違うので、比べることも出来ないが、それでも、新春の富士山と、山中湖を眺めながら、ウィンナワルツを聴くのは、いいものである。
海抜1000メートルの山中湖は、極寒の地である。一昔前ならば、極寒の1月に、山中湖で、ニューイヤーコンサートなど、考えることも出来なかったが、最近の科学技術の発達は、この自然の猛威すら、解決させてしまったのだから、感無量である。
特に今年は、山中湖が、22年ぶりの全面結氷で、富士山との眺めは、胸を躍らせる。
後藤泉は、1999年12月にデビュー以来、丸6年を経過したが、ウィーン・フィルのフリッツ・ドレシャル、ウェルナー・ヒンク、ペーター・シュミードル、ヴォルフガング・シュルツと各々、デュオ活動を重ね、また、ヒンク、ドレシャルとは、トリオを結成。また、ウィーン弦楽四重奏団とは、ボンで、シューベルトの「ます」を演奏するなど、ウィーン・フィルのメンバーとの活動が目覚しい。
また、今年からは、ベートーヴェン・オーケストラと、ベートーヴェンのピアノコンチェルトに挑戦。さらに、元ウィーン・フィルのコンサートマスター、ダニエル・ゲーデと、新しいピアノクアルテットを結成、さらには、ウィーン・フィルの首席奏者で、トロンボーンの名手、イアン・バウスフィールド、また、ウィーン・フィルの若手、ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルクと共に、ウィーン・ロンドンツアーを行うなど、話題が絶えない。
山中湖テラスのニューイヤーコンサートは、その後藤泉が、一人で、ウィンナワルツを弾きまくろうというのだから、面白い。彼女の、リスト版、ベートーヴェンのシンフォニーシリーズも絶品だが、ウィンナワルツも絶品。山中湖の1月の富士山とならぶ、風物詩になるだろう。
投稿者 hayashiya : 04:10
2006年01月19日
人間の生きる価値について(1)
我々は、何のために生まれ、何の目的で生きているのでしょうか。
歴史上、お釈迦様をはじめ、大勢の人たちが、悩み苦しんできた命題です。
そして、まだ、誰も、この命題に対する答えを出した人はいません。
無論、私などに、この難問の答えを出すのは、不可能です。
しかし、知恵がない者は、ないなりに、問い続けていると、
それなりに、輪郭のようなものが見えてきます。
少し、情勢分析をして見ましょう。
まず第一に、我々は生まれてくる時、一糸纏わぬ、素っ裸で生まれてきました。
どんな偉い人でも、また、どんなお金持ちでも、全く同じ条件です。
そして、面白いことは、死ぬときです。
これまた、どんな偉い人でも、また、どんなお金持ちでも、
死ぬときは、1銭のお金も、財産も、あの世へは持っていけません。
つまり、この世の中は、一種のスポーツか、ゲームのような存在なのではないでしょうか。
そして、その出場するルールは、
全員、同一条件で、素っ裸でスタートです。
そして、この世の中で、入手したすべての財産も、何もかも、最後は、この世に残して退場なのです。
人生ゲームの得点は、幸せか、不幸せか。
どんなお金持ちにも、幸せな人もいますし、不幸せな人もいます。
また、どんな業病の持ち主でも、心の持ち方では、幸せに生きていくこともできます。
大事なことは、その人が死ぬときに、「ああ、自分の人生は幸せだったなあ」と思えるか、
さもなければ、「ああ、自分の人生は、何だったんだろう。苦しいばっかりだったなあ。」と思うか、
なのではないでしょうか。
では、どうしたら、死ぬときに、幸せを感じることが出来るのでしょうか。
歴史を見てみると、かなりヒントになると思います。
世の中で、一見、大成功した人が、その最後の瞬間に幸せだったかどうか。
太閤秀吉を例にとって考えてみましょう。
秀吉は、あれだけの大成功をして、大阪城を築き、位人臣を極め、栄耀栄華を尽くしながら、死ぬときは、迷いに迷い、後顧に憂いを残して、死んで行きました。そして、あれだけの財産を築きながら、息子の秀頼は、若干22歳で、その生涯を終えたのです。しかも、最後は、大阪落城、そして、自刃という、実に、惨たらしい結果でした。これなどは、まさに、栄耀栄華を尽くした果ての、行き着くところなのではないでしょうか。
どうも、富は、一見幸せの元のような気もするのですが、見方によっては、不幸せの元でもあるようです。
ところが、昨今、新聞やテレビのニュースをみていると、またぞろ全国民あげて金儲けに走っているように思えているのは、私だけなのでしょうか。いや、全国民といわず、政府までが、まるで、バブルの再来を期待しているのではないかと、心配になるときがあります。
いや、お金儲けがいけないと云っているのではありません。稼いだ後の、処理の仕方が問題だ、と言っているのです。
バブル経済の崩壊で、十分に痛い目にあったはずの人々が、また同じ道を歩いているのを見ていると、悲しくなります。
持たないことの幸せを、もう一度、考えてみてはどうでしょうか。
さて、文頭に掲げた、大命題です。
我々は、何のために生まれ、何の目的で生きているのでしょうか。
この問いに対して、まだ答えになってはいませんが、少し、とっかかりが出来てきたような気がします。
また、次の機会に、もう少し、探索を深められればと思います。
投稿者 hayashiya : 21:58
はじめに
2006年。
新しい年の幕開けです。
しかし今年は、1月もすでに半ばを過ぎたというのに、未だに、年頭の目標も掲げず、また、新年の誓いも立てず、徒に、ただ、うだうだと、時間を送っています。
実は、2005年の12月26日より、仕事で、ロンドン、キエフ、ウィーンと、廻ってきて、すっかり、過労で、ダウンしてしまいました。
そこで、もうそろそろ、しっかりしなくてはと云うことで、ブログなるものに挑戦、新規まき直しを図ろうと云うわけです。
私は、今、富士山麓の高度1100メートルの高原に住んでいます。
家のテラスからは、眼下に森が広がり、その向こうに、湖と、富士山を見渡せます。
実に日当たりの良い家で、朝、太陽が、東の山の端に顔を見せてから、夕方、西の山の端に沈むまで、燦燦と、遮るものもなく、その恩恵を与えてくれています。
そして、紫の帳が、あたりを包むと、壮大なドラマの幕開けです。
天の川が、北から南へ、堂々と流れ、月をはじめとする役者たちが、天空を駆け巡ります。
私は、このテラスから眺める風景を、最初のころ、ただ只管、「絶景かな」「絶景かな」と感激して眺めていました。ところが、そのうちに、この夜景が、ただロマンティックな星々のドラマではなく、実は、今も続いている、新星の爆発とか、星雲の衝突、などなど、もっと凄まじい、宇宙の営みが眺められているのだと、気付きました。
望遠鏡で眺めてみると、月も、詩歌の世界の風流なそれではなく、無数の隕石の衝突を記録するクレーターが手に取るように眺められ、文学の世界から、宇宙物理学の世界へと、否応無く、引きずりこまれます。そう、このテラスは、138億光年の広がりのある、この宇宙の展望台だったのです。
そう気付いたときから、私の、思想に変化が起き始めました。
今現在、最新の科学技術をしても、この広大な宇宙のどこにも、地球以外には、如何なる生命体も、発見されてはいません。
つまり、われわれ人類は、この138億光年という、広大な宇宙に展開する、何億個という星々のなかで、
唯一、美しい地球に生を得たのです。
言うなれば、奇跡の存在と言えるでしょう。
しかも、人類のなかでも、我々日本人は、山紫水明の自然の豊かな、日本という国に生まれました。そして、歴史の中でも、現代という、全く戦争のない、とてつもない平和な時代に生かされているのです。
こんな幸せがあるでしょうか。
同じ地球に生まれながら、国をもてない人々。また、砂漠と、岩山ばかしに囲まれた地域に生を得た人々。また、赤道直下や、極寒の極北に生まれた人々。それに比べて、気候温暖で、豊かな水と緑に囲まれた日本は、何にもまして、恵まれた国なのではないでしょうか。
それなのに、毎日の、テレビや新聞の報道を見ていますと、日本人の多くが、何と、馬鹿な毎日を送っているのでしょうか。
この美しい自然と、温暖な気候、そして、戦争のないこの平和以外に、何を求めるのでしょうか。
投稿者 hayashiya : 00:50